リトアニア諸公

ジグムント・コリブトヴィチ

Zygmunt Korybutowicz

生:1395?
没:1435.09

父:カリブタス・アルギルダイティス (リトアニア大公アルギルダス
母:?

結婚:?

子:?

ゲディミノヴィチ。カトリック。リトアニア語ではジギマンタス・カリブタイティス Žygimantas Kaributaitis、ロシア語ではシギズムント・コリブトヴィチ Сигизмунд Корибутович。

 以下の記述中には、同名の人間が3人登場する。これを区別するため、ポーランド語の «ジグムント» はジグムント・コリブトヴィチを、リトアニア語の «ジギマンタス» はジギマンタス・ケーストゥタイティスを、ドイツ語の «ジギスムント» はドイツ王・ハンガリー王(のちの神聖ローマ皇帝)を指すことにする。

 父は正教徒だったし、母も、もしリャザニ大公女だったとすれば(それ以外に父の妻は知られていないが)、やはり正教徒。にもかかわらず、ジグムントという名はどう考えてもカトリック名である。
 父は1404年を最後に史料から姿を消している。ちょうどこの年から、ジグムントは伯父であるポーランド王ヨガイラの宮廷で育てられたという。あるいはこの年に父を亡くし、伯父に引き取られたということなのかもしれない。いずれにせよ、クラクフで育てられたとなれば、あるいはこの時に正教からカトリックに改宗したのかもしれない。

 1410年、グリュンヴァルト/タンネンベルクの戦いに従軍(自前の部隊を指揮した)。

 当時、ヨガイラには息子がいなかった。同母弟のうち、シュヴィトリガイラヨガイラに反抗して、監禁状態にあった。ほかにレングヴェニスもいたものの、ヨガイラとしても手元で育てたジグムントにより愛着を抱いたのか、ジグムントは自前の宮廷を開くことを許され、ほとんど王太子扱いされていたらしい。

 1419年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が死去。弟のドイツ王ジギスムント/ハンガリー王ジグモンドがボヘミア王位を継ぐはずだったが、かれはボヘミアの多数派となっていたフス派の要求を拒否。さらに教皇マルティヌス5世がフス派に対する十字軍を呼びかけ、フス戦争が勃発した。

プラハ大学学長ヤン・フスはカトリック教会の堕落を批判。1415年にはコンスタンツ公会議に招かれるが、有罪とされた上で処刑されてしまう。これにボヘミア貴族が反発。本来 «教会改革» という点で同志であるはずのフス派をコンスタンツ公会議は疎外し、マルティヌス5世による十字軍の呼びかけにより、対立は軍事的衝突にまでいたった。なお、フス派に対する十字軍は1431年まで5回召集されたが、いずれもフス派に敗北している。フス戦争の終結は、フス派自身の内部からの瓦解によってもたらされた。

 ジギスムント軍を破ったフス派のボヘミア貴族は、1421年にヨガイラにボヘミア王位を提供。しかし公会議で異端と宣告されたフス派に与することは、ただでさえ異教からカトリックに改宗したばかりで、しかもドイツ騎士団との戦争を抱えるヨガイラとしては避けたいところであった。ボヘミア貴族は次にリトアニア大公であったヴィタウタスに王位を提供。ドイツ騎士団とジギスムントが手を結んでいる以上、ヴィタウタスとしてはボヘミア貴族とは是非とも協調しておきたいところであった。しかし無闇にリトアニアを離れることのできない状況にあり、自身の代理としてジグムントを派遣した。
 ジグムントは1422年にプラハ入り。ボヘミア貴族の承認を得て、事実上のボヘミア副王となった。しかしまさにこの年、ヨガイラヴィタウタスはドイツ騎士団と講和し、情勢が大きく変化した。
 1423年、教皇マルティヌス5世がヨガイラヴィタウタスに対して、ジグムントを撤退させるよう命じた。カトリック世界を敵にまわすことのできないふたりは屈服し、ヨガイラとジギスムントの合意に従い、ジグムントはボヘミアから帰国した。

 1424年、ボヘミア貴族はヴィタウタスに対し、ジグムントをボヘミア王として派遣してくれるよう要請。ヴィタウタスはこれを蹴ったが、ジグムントはヨガイラヴィタウタスの反対を無視してボヘミアへ。プラハにてボヘミア王を宣言した。ヨガイラはジグムントの領土を没収。マルティヌス5世はジグムントを破門するが、ジグムントは自らフス派に改宗した。
 当時フス派は、すでに «穏健派» と «強硬派» への二分化をはじめていたが、ジグムントは両派を協調させ、ジギスムントが勢力を張るモラヴィアに侵攻。特に、«急進派» の指導者ヤン・ジシュカの死後は、名実ともにフス派軍の最高司令官となり、1426年、ウースティー・ナド・ラベム/アウシヒの戦いでカトリック軍に大勝利を収めた。
 カトリック世界すべてを敵にまわして戦い続けることは困難で、軍事的成功を背景に有利な形で戦争を決着させようと、ジグムントはジギスムントとの交渉を開始する。しかしこの交渉を知った «急進派» により、1427年、ジグムントはヴァルトシュテイン城に監禁される。
 ジグムントはボヘミアでは人気があり、そのため «急進派» としてもいつまでもジグムントを監禁しておくことができなかった。1428年、釈放されたジグムントは、スレスコ/シロンスクに派遣される。ここには姉ヘレナがおり、その下でこの地方のフス派指導者として活動を続けた。

スレスコはチェコ語。シロンスクはポーランド語。ドイツ語ではシュレージエン、和製英語ではシレジアと呼ばれる。990年以来ポーランド王の宗主権下に入った。12世紀前半にポーランドがピャスト家一族に分割されると、独自の公領となる。のち細分化。14世紀前半からは、シロンスク系諸公は相次いでポーランド王からボヘミア王へと臣従の対象を変える。その結果、この時期にはシロンスクはボヘミア領となっていた。
 ジグムントの姉ヘレナはラティボシュ公ヤン2世に嫁いでいたが、ヤン2世は1424年に幼児ふたりを遺して死んでいた。ヘレナは息子の摂政として、当時、夫の遺領を統治していた。

 リトアニアでは、1430年にヴィタウタスが死去。後を継いだシュヴィトリガイラヨガイラと敵対。ジグムントをリトアニアに呼び戻すが、ジグムントは帰国せず、そのままフス派の領袖としてスレスコ/シロンスクに残った。
 1434年、バーゼル公会議がフス派に講和を呼びかけた。«穏健派» はこれに応えたが、«急進派» が拒絶。このため «穏健派» と «急進派» との間に軍事衝突が起こり、リパニの戦いで «急進派» は事実上壊滅。1436年には «穏健派» がジギスムントと講和し、フス戦争も終結に向かっていく。
 このような情勢の変化を見て、フス派の将来に見切りをつけたか、ジグムントは1434年にリトアニアへ。この間にリトアニアでも情勢は大きく変化していた。ジギマンタスがリトアニア大公となり、位を追われたシュヴィトリガイラはルーシ貴族の支持を背景にこれと対立していた。ジグムントはシュヴィトリガイラ側に身を投じ、1435年のパバイスカスの戦いにも従軍した。しかしこの戦いはシュヴィトリガイラ派の大敗に終わり、ここでも大勢は決した。
 ジグムント自身、パバイスカスの戦いで負傷し、敵軍の捕虜となって死んだと伝えられる。ただし戦傷が死因になったとも、処刑されたのだとも言われる。

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最終更新日 01 01 2012

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