リトアニア諸公

シュヴィトリガイラ・アルギルダイティス

Švitrigaila Algirdaitis

ヴィテブスク公 князь Витебский(1392)
ポドーリエ公 князь Подольский (1400-02)
ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公 князь Новгород-Северский (1405-08、19-30)
リトアニア大公 (1430-32)
ルーツク公 князь Луцкий (1440-52)

生:?
没:1452.02.10−ルーツク

父:リトアニア大公アルギルダス (リトアニア大公ゲディミナス
母:ユリアーニヤ (トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ

結婚:
  & アンナ (イヴァン・イヴァーノヴィチ «トヴェーリ大公イヴァン・ミハイロヴィチ»)

子:?

ゲディミノヴィチ。ロシア語ではスヴィドリガイロ・オリゲルドヴィチ Свидригайло Ольгердович。

 アルギルダスの子供たちの生年は不明で、ゆえにその長幼の順も必ずしもはっきりしないが、シュヴィトリガイラは一般的に末子とされる。

 幼少時に母により正教徒として洗礼されたとも言われる(洗礼名レオナス Leonas/レフ Лев)。
 1386年、ポーランド王に即位した兄ヨガイラとともに、クラクフでカトリックとして洗礼を受ける(洗礼名ボレスロヴァス Boleslovas/ボレスラーフ Болеслав)。

 1392/93年、従兄弟のリトアニア大公ヴィタウタスによりヴィテブスクから追われる。
 なぜシュヴィトリガイラがヴィテブスクにいたかはよくわからないが、ある文献によると、1392年に母ユリアーニヤが死んだ際にヨガイラから与えられたという。
 1392年、アストラヴァス/オストルフ条約により、リトアニアの支配権を巡って争っていたヨガイラヴィタウタスが和解し、ヴィタウタスがリトアニア大公となった。これには一族の多くが反発したが(ヴラディーミル・オリゲルドヴィチカリブタスフョードル・コリアトヴィチ)、おそらくシュヴィトリガイラもそのひとりだったのだろう。そのためにヴィテブスクから追われたものと思われる。

 ヴィテブスクを追われたシュヴィトリガイラは、リヴォニア騎士団に身を寄せ、ヴィタウタスに対抗した。しかしリヴォニア騎士団に身を寄せたということは、ヴィタウタスだけでなくヨガイラにも敵対したということになる。
 1396年にはリヴォニア騎士団とともにヴィテブスクを占領するが、ヴィタウタスの反攻で捕虜となったという。クラクフに送られ、ヨガイラにより幽閉された。

 1399年のヴォールスクラの戦いに従軍した。ヴィタウタスは1398年にドイツ・リヴォニア騎士団と講和しているので、シュヴィトリガイラが、ヴィタウタスがタタールと戦ったヴォールスクラの戦いに従軍していても不思議ではない。
 あるいはこれにより和解が成ったか、1400年、シュヴィトリガイラはヴィタウタスからポドーリエをもらっている。

 1401年、ジェマイティヤにてドイツ騎士団に対する叛乱が勃発。ヴィタウタスはこれを支援し、ふたたび騎士団との戦争が始まった。これに乗じて、シュヴィトリガイラは再び騎士団と結んでヴィタウタスに反抗。1402年にはリヴォニアに逃亡した。
 しかし騎士団は、1404年にはヴィタウタスと講和した。講和の条件のひとつがシュヴィトリガイラに対する支援の停止であったから、シュヴィトリガイラとしてもヴィタウタスと和解せざるを得なくなった。こうしてシュヴィトリガイラは1405年に、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイをもらう(ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公だったフョードル・リュバルトヴィチは弾き飛ばされた)。

 あいかわらずヴィタウタスとの関係はうまく行かなかったのだろう。シュヴィトリガイラは1408年、モスクワに亡命。ヴァシーリイ1世よりヴラディーミル、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ、ユーリエフ=ポリスキイ、ヴォロコラームスク、ルジェーフをもらう。ところがこの年、エディゲイ率いるタタール軍がモスクワに侵攻。ペレヤスラーヴリ=ザレスキイなどを蹂躙していった。シュヴィトリガイラは、エディゲイの侵攻の前に、あるいは後に、分領を棄ててリトアニアに逃げ帰った。

 リトアニアにおいてシュヴィトリガイラは裏切り者であり、ヴィタウタスにとっては危険な存在でもあったので、1409年に監禁された。
 1418年、ドイツ王ジギスムントのもとに逃亡。その仲裁で改めてヴィタウタスと和解し、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイを与えられた。いかなる心境の変化か、これ以降の10年間はシュヴィトリガイラは分領でおとなしくしていた。

 1430年、ヴィタウタスが死去。リトアニア貴族により、シュヴィトリガイラがリトアニア大公に選出された。かれら、特にその大多数を占める正教徒のルーシ諸公の歓心を買うため、正教貴族にカトリック貴族と同等の権利を認めた。
 しかし1413年のホロドウォ条約によれば、リトアニア大公はポーランド貴族の同意なしには選出され得ない。ところがポーランド貴族は、正教徒にカトリックと同権を与えたシュヴィトリガイラに反発。
 ポーランド軍がポドーリエに侵攻。ここは1411年にポーランドからリトアニアに譲渡されていたが、それはヴィタウタスの存命中だけとの取り決めだと主張したためである。
 もともと、リトアニアを併合しようというポーランド貴族と、ポーランドと同盟は結んでもその下風に立つ気などさらさらないリトアニア貴族との間には、1385年以来対立があった。シュヴィトリガイラはそのようなリトアニア貴族(特にカトリックに反発する正教徒ルーシ諸公)の支持を背景に、ポーランド王である兄ヨガイラの宗主権を否認。ドイツ騎士団やノーヴゴロドとも同盟し、ポーランドとの戦争を始めた。
 1431年、シュヴィトリガイラはヴォルィニに侵攻。ポーランド軍がこれに対処している隙を突いて、ドイツ騎士団がポーランドに侵攻。南北の両面作戦を強いられたヨガイラは、シュヴィトリガイラとドイツ騎士団との休戦を余儀なくされた。これによりシュヴィトリガイラはリトアニア大公として認められた。

 1432年、ジギマンタスヴィタウタスの弟)がクーデタ。シュヴィトリガイラは命からがらポーロツクに逃れた。
 ポーロツクにて、シュヴィトリガイラはルーシ諸公の支持を得て抵抗を継続。シュヴィトリガイラとジギマンタスをそれぞれ戴くふたつの勢力により、リトアニアは二分された。単純化すると、リトアニア本土やジェマイティヤ、黒ルテニアはジギマンタスを支持し、ポーロツク、スモレンスク、キエフ、ヴォルィニがシュヴィトリガイラを支持した。シュヴィトリガイラはさらにドイツ騎士団やキプチャク・ハーンとも同盟したが、ポーランド貴族はジギマンタスをリトアニア大公として承認した。
 1435年、パバイスカス/ヴィウコミェシュの戦いで、シュヴィトリガイラとドイツ騎士団の連合軍はジギマンタスに大敗を喫する。これにより大勢は決した。ドイツ騎士団もジギマンタスと講和して、シュヴィトリガイラを支持していたルーシ諸公も、徐々に脱落していった(シュヴィトリガイラ派に残ったのは、キエフとヴォルィニだけ)。これ以後もシュヴィトリガイラは抵抗を続けるが、形勢を逆転させることはできなかった。
 1437年にポーランド王ヴワディスワフ3世との講和を模索するが、ポーランド貴族の反対で流産。しかしこの後、シュヴィトリガイラが積極的な軍事行動をとることはもはやなかった。

 1440年、ジギマンタスが暗殺される。下手人はシュヴィトリガイラ支持の貴族だったとも言われる。
 リトアニア貴族は後継のリトアニア大公に、シュヴィトリガイラではなくカジミエラスを選出した。カジミエラスヴワディスワフ3世の弟だったが、まだ幼年であり、実権はリトアニアの大貴族たちが握った。これにより、1385年以来続いたリトアニアとポーランドの連合は終わり、両国は分離した。
 シュヴィトリガイラはヴォルィニとポドーリエを領土とされた。

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最終更新日 01 01 2012

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