ミハイール・オレリコヴィチ
Михаил Олелькович
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1470-71)
スルーツク公 князь Слуцкий и Копыльский
生:?
没:1481.08.30/1482.11−ヴィリニュス
父:キエフ公オレリコ・ヴラディーミロヴィチ (キエフ公ヴラディーミル・オリゲルドヴィチ)
母:アナスタシーヤ (モスクワ大公ヴァシーリイ1世)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | |||||||
1 | セミョーン | -1505 | スルーツク | アナスタシーヤ | ムスティスラーヴリ公イヴァン・ユーリエヴィチ | ゲディミノヴィチ |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではミコラス・オレルカイティス Mykolas Olelkaitis。
1470年、ノーヴゴロドのリトアニア派がミハイール・オレリコヴィチを公として招く。ミハイール・オレリコヴィチはノーヴゴロドに赴いたが、公として統治したのはわずか4ヶ月。
内ではリトアニア派とモスクワ派の内紛が収まりがつかず、外では、カトリックであるリトアニア人と手を組んだとして、モスクワ大公イヴァン3世がルーシ諸公を結集し、ノーヴゴロドに侵攻してきた(ミハイール・オレリコヴィチ自身は正教徒だったが)。
時あたかも1471年、キエフで兄セミョーン・オレリコヴィチが死去。ミハイール・オレリコヴィチは、これを口実にノーヴゴロドを棄ててキエフに赴いた。なお、このため、ノーヴゴロドとイヴァン3世との軍事衝突にはかかわっていない。
ノーヴゴロド公位を棄ててまでキエフに赴いたミハイール・オレリコヴィチだったが(これ幸いと逃げ出してきた観もあったが)、キエフ公領はリトアニア大公カジミエラスによって廃止され、総督が置かれた。ミハイール・オレリコヴィチには、父祖の地スルーツクだけが残された。
おそらくその不満も募ったのだろう、1481年、カジミエラスに対するクーデタ計画を企てるにいたる。この計画には、従兄弟のフョードル・イヴァーノヴィチと、イヴァン・ユーリエヴィチ・ゴリシャンスキイ/ヨナス・アルシェニシュキスも加わった。ミハイール・オレリコヴィチとフョードル・イヴァーノヴィチはともにヴラディーミル・オリゲルドヴィチの孫であり、イヴァン・ゴリシャンスキイは曾孫であった。つまりは、かれらはヴラディーミル・オリゲルドヴィチから受け継ぐべき領土を «奪われた» 者同士ということになる。
この計画にはモスクワ大公イヴァン3世やクリム・ハーンのメングリ=ギレイの支持も取り付け、カトリック化政策に不満な正教貴族をも味方につけて進行したが、キエフ総督イヴァン・ホトケーヴィチ/ヤン・ホトキェヴィチにより露見。
ミハイール・オレリコヴィチとヨナス・アルシェニシュキスは処刑され、フョードル・イヴァーノヴィチはモスクワに亡命した。