イヴァン・ドミートリエヴィチ・ベリスキイ
Иван Дмитрьевич Бельский
公 князь
ボヤーリン боярин (1558-)
生:?
没:1571
父:ドミートリイ・フョードロヴィチ・ベリスキイ公 (ベーラヤ公フョードル・イヴァーノヴィチ)
母:マリーヤ (イヴァン・アンドレーエヴィチ・チェリャドニン)
結婚:1555
& マルファ 1539-71 (ヴァシーリイ・ネモーイ=シュイスキイ公)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
ヴァシーリイ | |||||||
イヴァン | |||||||
フョードル | |||||||
アンナ | |||||||
アナスタシーヤ |
ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。
1550年代から、軍の司令官として歴史に登場する。1551年に死んだ父の跡を引き継いだというところだろうか。
1561年、クリム・ハーン軍の襲来を撃退。1563年からはリヴォニア戦争で軍を指揮する。
1565年、オプリーチニナ体制が導入されると、ゼームシチナの «筆頭ボヤーリン» に任命された。
1571年、デヴレト=ギレイがモスクワに侵攻。オカー河畔に迎撃に出陣するが、クリム・ハーン軍はこれを迂回してモスクワを襲撃。司令官として責任を取らされたイヴァン・ドミートリエヴィチは処刑される。