リトアニア諸公

フョードル・イヴァーノヴィチ

Федор Иванович

ベーラヤ公 князь Бельский

生:?
没:1505・06頃

父:ベーラヤ公イヴァン・ヴラディーミロヴィチキエフ公ヴラディーミル・オリゲルドヴィチ
母:?

結婚①:1481
  & アンナ (コブリン公セミョーン・ロマーノヴィチ

結婚②:1498
  & アンナ (リャザニ大公ヴァシーリー・イヴァーノヴィチ

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
アンナ・ヴァシーリエヴナと
ドミートリイ1499-1551
イヴァン-1542
セミョーン
グリゴーリイ

ゲディミノヴィチ。正教徒。

 1481年、従兄弟のミハイール・オレリコヴィチ、イヴァン・ユーリエヴィチ・ゴリシャンスキイ/ヨナス・アルシェニシュキスとともに、リトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世に対するクーデタ計画を企てる。
 かれらはいずれもヴラディーミル・オリゲルドヴィチの子孫(フョードルとミハイールは孫、ゴリシャンスキイは曾孫)であり、つまりこれは、ヴラディーミル・オリゲルドヴィチの遺領を没収された者同士の企てであった。しかしカジミエラスの政策は多くのリトアニア貴族(特に正教徒のルーシ貴族)の反発を買っており、さらにモスクワ大公イヴァン3世やクリム・ハーンのメングリ=ギレイの支持も取り付け、クーデタ計画は着々と進行していった。
 しかし最後の段階で、キエフ総督イヴァン・ホトケーヴィチ/ヤン・ホトキェヴィチにより露見。ミハイール・オレリコヴィチとイヴァン・ゴリシャンスキイは処刑され、フョードル・イヴァーノヴィチはモスクワに亡命した。

 亡命時点で、フョードル・イヴァーノヴィチは新婚ほやほやだったが、新妻アンナ・セミョーノヴナは後に残された。フョードル・イヴァーノヴィチはカジミエラスに、アンナ・セミョーノヴナの出国を許すよう要求し、これにはイヴァン3世も助力したが、よほど怒ったのか、カジミエラスはこれを許さなかった。
 ちなみに、その後アンナ・セミョーノヴナは別の男と結婚させられた。

 新たにイヴァン3世に仕えることとなったフョードル・イヴァーノヴィチは、ノーヴゴロドに領地をもらう。1485年にはそのトヴェーリ遠征にも従軍した。

 1493年、失寵。リトアニアとの通牒を疑われたかららしい。ガーリチ=メールスキイに追放されたが、1497年には復活し、新たにヴォルガ上流域に領地をもらった。1498年には、イヴァン3世の仲介で、その姪アンナ・ヴァシーリエヴナと結婚。イヴァン3世の方には追放の埋め合わせのつもりもあったのかもしれないが、フョードル・イヴァーノヴィチとしてはためらいもあったようだ。つまり、教会法上はアンナ・セミョーノヴナとの婚姻関係はいまだ続いていたからである(アンナ・セミョーノヴナがすでに別の男と «再婚» していたというのはこの場合問題ではない)。

 1500年、弟セミョーン・イヴァーノヴィチが、リトアニア大公アレクサンドラスに替えてイヴァン3世に臣従。これは、フョードル・イヴァーノヴィチのように領土を棄てて亡命した、というのと異なり、領土を保持したまま主君を替えたわけで、国境の辺境を伴う。これがイヴァン3世アレクサンドラスとの新たな戦争のきっかけとなった。
 フョードル・イヴァーノヴィチも1502年のスモレンスク攻略に従軍している。

 1506年、カザン遠征に従軍。遠征は大失敗に終わった。

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最終更新日 01 01 2012

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