ロシアの首都はモスクワ市 Москва (Moskva) である。
モスクワ市は、行政上はロシア連邦を構成する一単位である。モスクワ州という地方行政単位が存在するが、モスクワ市はモスクワ州には含まれない(ただしモスクワ州の州都はモスクワ市である)。
首都の変遷
古い時代についてはロシアの歴史を知らねばならず、そもそもロシアとは何ぞや? という問題もからんでくるので、ここでは細かいことは無視して、とりあえずロシア人が «ロシアの首都の変遷» として理解しているものを示す。
ノーヴゴロド
ノーヴゴロドは北西ロシアにある小都市。現在でこそ北方のサンクト・ペテルブルグの影に隠れた小都市だが、16世紀までは商業で栄え、政治的にも重要な大都市であった。
日本の高校の世界史レベルだと、862年にリューリクが建国したノーヴゴロド公国がロシア最初の国家ということになる。これは多分に伝説的な話で、どこまで史実を反映しているのか不明だが、少なくともノーヴゴロドが9世紀当時の中心都市(のひとつ)だったことは疑いない。
むしろ問題は、ノーヴゴロド公国がロシア最初の国家と言えるかどうか、にあるが、それはここでは論じない。
ノーヴゴロドが首都であった期間は短く、882年には首都はキエフに遷された。
なお、リューリクはノーヴゴロドに建国する前にラードガという都市を拠点としていた、とする年代記もある。これに基づき、ラードガ(現スターラヤ・ラードガ)をロシア最初の首都とする者もいる。
キエフ
言うまでもなくウクライナの首都である。
882年、ノーヴゴロド公オレーグがキエフを占領し、ここを当時のルーシの首都と定めた。
歴史理解とも密接にからんでくるが、キエフを首都とした統一国家(キエフ大公国/キエフ・ルーシ)がいつまで存続したかは非常に難しい問題である。キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、ポーロツク、スモレンスク、チェルニーゴフ、ガーリチ、ノーヴゴロドなどの諸公国に分裂し、それらは早くも12世紀にはキエフ大公の言うことなど聞かなくなっていたからだ。それでも、モンゴルの襲来までは諸公(のうち何人か)はキエフ大公の座を巡って争っているので、いちおうこの頃まではキエフ大公が最高主権者としての権威を保っていたと考えていいかもしれない。
1240年にモンゴル軍によってキエフは破壊され、以後キエフ大公の権威は地に堕ちた。13世紀後半には誰がキエフを支配していたのかもわからなくなる。
ヴラディーミル
モスクワの北東にある小都市。
キエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、こんにちのウクライナとベラルーシ、加えてヨーロッパ・ロシアの一部を版図としていた。このうち北東部、こんにちのヨーロッパ・ロシアの中央部には、ロストーフ公国がつくられた。これはキエフ大公国の一部であったが、早くも12世紀には自立の道を歩み始める。のち、この公国の首都はロストーフからスーズダリ、さらにヴラディーミルへと遷される。
1169年、時のヴラディーミル公アンドレイ・ボゴリューブスキイがキエフを攻略するが、キエフ大公の座は弟に譲り、自らは北東のヴラディーミルに帰還してしまう。かつてロシアの歴史家は、この時点をもってアンドレイ・ボゴリューブスキイがキエフ大公国の宗主になったと考え、これ以降のかれの称号をヴラディーミル大公と呼んでいた。上述のように1240年まではキエフ大公も、特に南部においては依然として大きな権威を持っていたので、この考えの妥当性については一概には言えない。
しかし «ロシアの首都» という観点からすると、1169年という数字が妥当かどうかは別として、この頃からヴラディーミルがロシアの中心都市(のひとつ)になったと言うことはできるだろう。こんにちのヨーロッパ・ロシアには、当時、ヴラディーミル公国のほかに、ノーヴゴロド公国、リャザニ公国、スモレンスク公国があった(ほかの公国の一部領土も入り込んでいた)が、ヴラディーミル公国は早くからリャザニ公国を従属させていたし、13世紀に入るとスモレンスク公国も圧倒し、ノーヴゴロド公国もまた従属させた(ただしその関係は単純ではなかった)。
最終的には1299年に、かつてのキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の正教会全体の長である府主教がキエフからヴラディーミルに引っ越し、宗教的にもヴラディーミルが、かつてのキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の中心都市となった。
しかしヴラディーミルが «ロシアの首都» であった期間は短い。早くも1325年には府主教がヴラディーミルからモスクワに遷座している。14世紀には歴代ヴラディーミル大公も、ヴラディーミルではなく、モスクワやトヴェーリに住んでいた。
モスクワ
14世紀半ばまでに、リトアニアはこんにちのウクライナとベラルーシを征服。かつてのキエフ・ルーシは、リトアニア領を除けば、ノーヴゴロド、ヴラディーミル、リャザニ、スモレンスクの4ヶ国が残るだけとなった。しかしヴラディーミルもこの時には分裂しており、モスクワ、トヴェーリ、ロストーフ、スーズダリなどが覇を争っていた。
ちょうどリトアニアがウクライナ・ベラルーシの征服を終えた頃、ヴラディーミルに覇権を確立したのがモスクワ公国である。すでに府主教は1325年にはヴラディーミルからモスクワに引っ越しており、歴代のヴラディーミル大公もヴラディーミルではなく、モスクワやトヴェーリに住んでいた。
モスクワによる周辺諸公国征服の過程は長期にわたり、最終的には1521年のリャザニ併合をもって、リトアニア領となっていない旧キエフ・ルーシの領土はすべてモスクワ大公領となった。1547年にはイヴァン雷帝がモスクワ大公に加えて «全ルーシのツァーリ» を自称するようになり、名実共にモスクワはロシアの首都となったと言っていいだろう。
別の項でも述べていることだが、キエフ・ルーシとはロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通の祖先であり、ここからロシアが分かれるのは早くても13世紀以降である。ウクライナとベラルーシがリトアニアに征服された14世紀以降は、完全にロシアはこれらと別の歴史を歩むようになり、政治的にもモスクワ大公の覇権の下に統一された15世紀以降、ようやくロシアが誕生してきたと言っていいだろう。その意味では、モスクワこそがロシア最初の首都であると言っていい。
1712年、ピョートル大帝は新たに建設したサンクト・ペテルブルグに遷都した。
サンクト・ペテルブルグ/ペトログラード
1712年、ピョートル大帝は、まだ建設途上のサンクト・ペテルブルグに遷都。しかしその死後、1728年には宮廷はモスクワに戻される。1732年、女帝アンナによって再びサンクト・ペテルブルグに遷都され、こうしてロシア帝国の首都はサンクト・ペテルブルグに落ち着いた。
もっとも、この時代にもモスクワは高い権威を保っていた。たとえば『戦争と平和』などでも描かれているように、サンクト・ペテルブルグとモスクワは «両首都» と呼ばれており、皇帝の戴冠式は常にモスクワのクレムリンでおこなわれた。
1914年、第一次世界大戦が勃発。ドイツ語のサンクト・ペテルブルグという名前が嫌われ、ペトログラードに改称された(ペテルブルグはドイツ語で、ペトログラードはロシア語で、どちらも «ペテロの都» という意味)。
1918年、革命直後の共産党政権によって、首都がペトログラードからモスクワに遷された。