ロシアの憲法

現行のロシア連邦憲法は、1993年12月12日に公布された。

 ロシア最初の憲法は1918年、ロシア革命後、共産党政権になってから制定された。日本の1889年などと比べても格段に遅いが、これは皇帝による絶対専制主義が «国是» だったためだと言える。日本の帝国議会開設が憲法発布翌年だったのに対して、ロシアの議会(ドゥーマ)開設が憲法に先立つ12年前の1906年だったことも、それを示している。
 その後ソ連の憲法は、1936年、1977年にそれぞれ新憲法が発布されている。

ロシアの憲法の変遷 あるいは憲法制定史

帝政時代

 ロシア帝国は皇帝の専制国家であったため、君主権を制限することになる憲法を制定しようという動きは、上からは起こらなかった。下からの動きとして早いものは、1825年のデカブリストの乱を起こした人々が憲法草案を作成していた。
 1905年の第一革命の結果、皇帝ニコライ2世は十月勅令を発布。これによりロシアは立憲制の方向に進み、1906年には «基本国家法典 Свод основных государственных законов» が発布された。これは厳密には憲法とは異なる。これ以前に発布された勅令や法律から、国体に関するものを集成したものと言っていい。

臨時政府

 帝政崩壊後に成立した臨時政府は、その名の通り一時的な存在であり、新国家がいかなるものであるべきか決めるため、憲法制定会議の招集を決定した。しかし臨時政府内の対立などから、憲法制定会議の選挙は結局臨時政府下では行われなかった。
 十月革命で権力を握ったボリシェヴィキーは憲法制定会議の選挙と招集を実施。ボリシェヴィキーが権力を握ってから3週間近く経ってから選挙が行われたにもかかわらず、ボリシェヴィキーの得票率は 25 % にとどまり、«反動的勢力» が過半数を握った。このため1918年1月に招集された憲法制定会議はボリシェヴィキーと対立し、解散させられた。
 憲法制定会議の反ボリシェヴィキー派議員はその後シベリアで反共政権を樹立するが、クーデタでコルチャーク提督に権力を奪われた。

ソ連時代

 憲法制定会議を武力で解散させたボリシェヴィキーは、代わってソヴィエト大会でロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法を制定した(1918年7月)。これは «社会主義への過渡期の憲法» と位置づけられ、一般に «レーニン憲法» と呼ばれている。これがロシア最初の憲法である。
 やがて «過渡期» は終了したとして、1936年に «スターリン憲法» が制定された。
 さらに1977年、«発達した社会主義» 段階の憲法として «ブレージュネフ憲法» が制定された。
 しかし1980年代末からペレストロイカの中でブレージュネフ憲法の修正が相次ぐ。国権の最高機関としての人民代議員大会の創設、大統領制の導入、共産党一党独裁体制の破棄、私的所有の承認などであり、1991年のソ連崩壊時点では、もはや «ブレージュネフ憲法» は形骸化していた。

ソ連崩壊後

 1993年、ロシア連邦憲法(現行憲法)制定。

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最終更新日 10 07 2011

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